彼女は跳ぶ!
作:秋木真
1
携帯電話を片手に持ちながら、海野圭太は住宅街を歩いていた。左右を見回しても、同じような家が並んでいる。
「ま、これなら優衣が迷ってもしかたがないかもな」
圭太はつぶやきながら、メールをもう一度確認する。そこには、優衣が自分の居場所を知らせるために送ってきたメールが表示されていた。
『また迷っちゃいました。今わたしのいるところには、近くの電信柱に迷い猫のチラシが貼ってあって、赤い屋根の家が目の前にあります』
それだけだった。いつものことだが、優衣は目印の探し方を根本的に間違えている。迷い猫のチラシが一カ所に貼ってあるわけがないし、赤い屋根の家なんて、この住宅街に何軒あることだろう。とはいえ、このメールだけでおおよその場所が、圭太には察しがついていた。
これも優衣のおかげといえなくもない。小学生から中学二年になる今まで、いったい何度、優衣のことを探したかわからない。いい加減、学校や家の近所一帯の地理は、頭に入ってしまった。
さらに少し圭太が歩いていくと、電信柱の近くの塀によりかかるようにして、優衣が立っていた。
優衣は圭太に気づくと、ほっとしたような笑顔を見せる。
「よお、また今回はずいぶんと遠くに跳んだな」
「そうなの? ここ学校から遠いの?」
どうやら、まったく自分の位置がつかめていないらしい。だから、方向音痴というのだろうけれど。
「学校から一〇〇メートルぐらいじゃないかな。……今度はなにがあったんだ?」
「うん……」
優衣は言いにくそうにしていたけれど、圭太にはとっくにわかっていた。
「また告白されたのか」
圭太の問いに、優衣はコクリとうなずいた。
まったく。これで中学に入ってから何人目だろうか。先月あったばかりだというのに。
たしかにパッと見は、可愛いかもしれない。頭もいいし、性格もおっとりしている。モテる要素はあるかもしれないが、どうにもそれが圭太には、プラスのポイントには思えない。
幼い頃から家が近い従兄弟同士、一緒にいて、なにかと面倒をかけられた記憶が上回るからだろうか。
「それにしても、なんで毎回跳ぶんだよ。そんなに嫌なのか」
「そんなこといったって……。自分の意志で跳んでるわけじゃないってこと、圭太だって知ってるでしょ」
「まあそりゃそうなんだが、毎回探すこっちの身にも……って、おい!」
一瞬目を離した隙に、優衣の姿が目の前からいなくなっていた。見通しのいい道路。身を隠すのは電信柱の陰ぐらいだが、もちろんそんなところにいれば一目でわかる。そもそも、優衣は運動音痴だから、そんなに素早く動けるわけがない。
ということは……
「また跳んだのかよ」
ため息まじりに、圭太は言った。
2
咲坂優衣は、いわゆる超能力者と呼ばれるべき能力を持っている。
テレポーテーション。日本風にいえば瞬間移動。
だれだって一度ぐらい、あれば便利だろうな、という空想はしたことがあるんじゃないだろうか。
もちろん、この世界にそんな物理法則を無視した能力は存在しない、というのが世間一般の常識だ。圭太だって、それぐらいの常識はわきまえている。
でも、事実としてそう捉えるしかないことが、目の前で起きたらどうだろうか?
一瞬目を離した後に、一〇〇メートル走の世界記録保持者でもたどり着けないようなところにいたとしたら。しかも、それがただの女の子であればなおさらだ。
そんな夢のような優衣の能力だが、圭太は一度もうらやましい、と思ったことはない。面倒な能力の発生条件があったからだ。
まずなにより、自分の意志で瞬間移動――圭太と優衣は跳ぶと呼んでいる――ことができなかった。嫌なことが起きたり、気分が滅入ると、人がいない所へ跳ぶ。それだけだった。
跳びそうな時は、本人もわかるらしく、ある程度は我慢できるようだ。だから、そうなったら優衣は人がいないところを探して、そこで跳ぶ。
物理的な理屈なんて、もちろんわからない。実際に、優衣が瞬間移動している、という保証もない。実証しようと思ったこともなかった。ただ、そうとしか説明しようがなかったし、本人の優衣も平気そうだったから、突き詰めて考えることは今のところしていない。
そんな実用性がない超能力だが、やはり特別なのには違いない。普通ならちょっと得意になるところだけど、優衣にはそうそうお気楽になれない理由があった。
優衣は極度の方向音痴だった。それはもう、前人未踏、空前絶後といってもいいような。圭太としては、こちらのほうが、超能力のような気さえしている。
たとえば、優衣にすぐそこの信号を右に曲がれ、と教える。そして、歩いていく優衣を見送っていると、優衣は平気な顔で信号を左に曲がっていく。
それだけではない。毎日通う通学路ですら、週に一回は迷っている。一〇分の道のりを、四〇分はかける。だから、迷ってもいいように、優衣は朝早く家を出るのだが、いつも校門手前で、遅く出た圭太と一緒になる。
決して記憶力が悪いわけじゃない。勉強は圭太より、平均点で一五点は上だ。圭太にとっては、瞬間移動より、こっちの方がよっぽど謎だ。
そんなわけで、この瞬間移動と方向音痴の能力が合わさったとき、限りなく迷惑きわまりないことが起きるのはわかってもらえると思う。
知らない場所に跳ばされる優衣にとって、そこは富士の樹海と同じだ。自力で抜け出すことは絶望的といっていい。そんなときに優衣が連絡するのが、圭太だ。
従兄弟兼幼なじみだから、誰よりも頼りやすいのだろうし、瞬間移動のことも唯一知っている。圭太以上の適任者を他に出せ、と言われても無理だ。
だからしかたなく、圭太は住宅街を遭難中の優衣を助けに行く。幸い、瞬間移動で跳ぶ距離は、最大でも一〇〇メートルぐらいらしい。跳ぶ前にいた場所を聞けば、圭太も探し出すことができた。
世間一般では、それを役得と呼んでいるようだけれど、もちろん圭太は、そんなことを思ったことはなかった。
3
肌をなでていく風が気持ちいい。
圭太はタイミングを計り、走り出す。
白線を遠くに見て、歩幅を合わせて、ジャンプする。体を前に折り曲げ、すべり込むようにして、砂場に着地する。砂のざらりとした感触がする。
立ち上がると、一年が距離をはかる。なかなかいい記録だ。
「調子いいみたいね」
砂を払っていると、声をかけられた。
ふり返ると、髪を短く切った、ボーイッシュな女子が立っていた。古橋冴子だ。サバサバとした性格をしていて、圭太とは部内の女子の中で一番仲がいい。
冴子の専門は一〇〇メートル走だけど、走り幅跳びでも時々大会に出ていた。もちろん、お互いに特別すごい成績は残していないし、平凡な一陸上部員に過ぎないけれど。
「今度の地区大会ぐらい、いい成績残したいだろ。来年は受験生だし」
「そうだね。去年は散々だったし」
「始めたばっかだから、しかたないさ」
少しの間沈黙が落ちる。圭太が練習にもどるために、歩き出そうとすると、冴子が引きとめてきた。
「え〜と。あのさ、海野」
「ん?」
足を止めてふり返る。
「話があるんだけど、部活終わったあと、ちょっといい?」
「ん? まあいいけど」
圭太はうなずくと、冴子とはなれて練習を再開した。
練習が終わり、使った用具を片付けると、用具室の外に冴子が待っていた。
「あれ、今日は片付け当番じゃないだろ」
「うん。さっきのことなんだけど」
そう言われて、圭太はようやく思い出した。
「ああ。なに?」
「あのさ。海野って、映画とか観る?」
「観ることは観るよ。まあ、映画館はなかなか高くて行けないから、DVDがほとんどだけど」
「そうだよね。え〜とね。……実は映画のチケットがあるんだけど、一緒に行かない?」
「映画? 古橋と一緒に?」
圭太はちょっと考える。二人で映画を観に行く。それって、デートってことか。だけど、冴子相手だと、そこまで深く考える必要もない気がするけど……。
「や、やっぱダメだよね。ごめん、変なこといって」
冴子が顔を赤くして、立ち去ろうとする。その背中に圭太は言った。
「いや、いいよ。いつ行く」
「えっ、いいの!」
驚いた顔で、冴子が聞き返してくる。
「友達と映画観に行くのに、深く考える必要もないだろ」
「友達……」
冴子は色々な感情の混じった、複雑そうな顔をしたが、すぐに笑顔をなった。
「じゃあ、今度の日曜日はどう?」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、決まりね」
そう言って冴子は、手をふって校舎の方に走って行った。
その後ろ姿を見ながら、圭太はぼそりと言った。
「友達、だもんな」
4
待ち合わせの駅前には、約束の三〇分前には来ていた。
家にいても落ち着かないので、結局早く出過ぎてしまった。
「なにやってんだろうな、オレは」
思わず独り言をつぶやいていると、通りの向こうから冴子がやってきた。
圭太がいることを見て、安心したような顔をしていた。こんな顔をどこかで見たことがある気が、圭太はした。
「おはよう、海野」
おはよう、と圭太も返して、一緒に歩き出す。
最初に映画を観て、お昼ご飯を食べてから、街をぶらぶらすることにした。
街中を歩きながら、まるっきりデートだなと思った。そう思うことにどことなく、後ろめたさも感じた。
もしかしたら、優衣の誘いを断ってきたせいだろうか。
冴子に映画にさそわれた次の日に、圭太は今度は優衣から買い物にさそわれた。といっても、優衣に買い物をさそわれるのは、初めてじゃない。街中を遭難しないように、道案内役として何度も付き合ったことがある。
だけど、優衣が言った日は、冴子と映画に行く日だった。
「悪いけど、その日は予定があるんだよ」
「そうなの? 大会?」
「いや、違うけど……」
「ふ〜ん。大会以外で予定が入ってるなんてめずらしいね」
「あのな。オレだって、予定ぐらいあるよ」
そっか、とうなずいた優衣が、さびしそうに見えた。
「ねえ、どうかした? ぼーっとしちゃって」
気づくと、冴子が顔をのぞきこむようにして、圭太を見ていた。その顔の近さに驚いて、圭太は体を引きながら、首を横にふった。
「いや。なんでもない」
「そう。ならいいんだけど。そういえば、さっき咲坂さんがいたよ」
「えっ? 優衣が」
「うん。声かけようと思ったんだけど、ちょっと目をはなしたらいなくなっちゃってて。結構素早いんだね、彼女」
その後も、冴子はなにか話しかけていたようだけど、圭太の頭には入ってこなかった。
優衣がいた? ここは最寄り駅から数駅行ったところだ。買い物をするなら、たしかにここだけれど、もしあいつ一人だとしたら、迷うんじゃないだろうか?
それに、目をはなした後に、姿が見えなくなったというのも気になった。もし、跳んでしまったのだとすれば、優衣は間違いなく迷っている。
でもそれなら、優衣から連絡があってもいいはず……まさかあいつ、今日予定があるって言ったから、気を利かしたりしてるんじゃ……。
「ねえ、聞いてる?」
冴子の少しいらだった口調に、圭太は我に返る。
「あっ、ごめん。聞いてなかった……」
「なに考えこんでるの? さっきから変だけど」
「……なあ。おまえ、ここから家に帰れるよな」
「はあ? もちろん決まってるでしょ。なにバカなこと言ってんのよ」
冴子はわけがわからない、と首をかしげている。それはそうだ。こんな質問ばかげている。だけど、この質問に首を横にふるヤツがいる。
「悪い古橋。今日はここで解散にしてくれ」
「えっ、ちょっと」
冴子の返事を待たずに、圭太は走り出す。
走りながら携帯電話で、優衣にかけた。
コール音はするが、なかなかつながらない。一〇回、一五回、二〇回……つながった。
「優衣か?」
「うん。どうしたの? 今日は用事があるんでしょ」
「もう終わった。ところで優衣、道に迷ったりしてないか?」
沈黙の後、優衣のつぶやくような声がした。
「……よくわかったね。ここ、迷宮みたい」
「だろうな。優衣にかかれば、世界のほとんどが迷宮だ」
圭太は笑う。
「来てくれるの?」
恐る恐るという調子で、優衣がきいてくる。
「ああ。今どこだ?」
優衣の説明を聞きながら圭太は走り出す。
会ったらなにか言わなきゃいけない気もするし、なにも言わなくてもいい気がする。
ただ一つわかっているのは、まだしばらくの間、優衣には圭太の道案内が必要だということだけだ。